私が開院した理由
私がなぜ「施術家」というすばらしい仕事を選んだか?
それは、私もあなたと同じように身体に不調が現れ
つらい思いを経験したことから始まります。
少し長くなりますが、よければお付き合い願います。
突然、体調に異変が…
私は学校を卒業して23年間、会社員をしておりました。
毎日忙しく、時期によってはここではいえないような
法を 逸脱した労働のときもありましたが毎月、安定したお給料を いただいてましたし、自分だけじゃない
日本の働き盛り世代は みんなそうなんだと特に疑問も
持たず過ごしていました。
そんな私が、40歳ぐらいあたりから身体に異変が現れました。
ちょうど仕事の環境が変わったころでした。
はじめは、首、肩の筋がつったようにかたくなりましたが、
「慣れない仕事のせいかな、すぐ治まるやろ」ぐらいに思ってました。
それが、治まるどころか夜中に目が覚めるようになり
そういう時は決まって息苦しいような感じでした。
さらに症状は悪化し、会議などで部屋に一定時間
拘束されるような状況になるとたまらなくなり
とにかく外に出たくなりました。
今でいうパニック障害です。
ひとたび発作が起きると夜中でも寝室にいるのが苦しくなり
外に出て夜中に散歩したこともありました。
さすがにどこか悪いかもしれないと思い、病院に行ってあらゆる検査を
しましたが特に異常はないといわれ薬を出されて様子をみてくださいとのこと。
少しは安心しましたが、その状態はそれからも続きました。
だんだんと身体は異常はないのに不調は続く状態。
どうしていいのかわからずほんとにつらかったです。
まわりの知り合いや友人に相談しましたが…
(友人)「病院行って来いよ」
(自分)「行ってきたけど、異常はなかった」
(友人)「そしたら大丈夫、気にしすぎ。」
(自分)「でも、明らかにいつもと違う。寝られへんし首肩、異常にこってるし」
(友人)「疲れてるんちゃう?俺だって寝られへん時くらいあるよ」
こんな感じの会話でした。
なんかすごくがっかりしたのを覚えています。
大袈裟に言うと絶望感みたいな。
「何もお前に治してくれとは言ってないし、お前、医者じゃないし…」
「ただ、話を聞いてくれるだけでええのに…」
カイロプラクティックとの出会い
それから自分なりにいろいろ調べました。
調べるうちにこういう症状を「不定愁訴」ということ。
そしてそれはストレスが原因であるということ。
カイロプラクティックや整体などが効果があることを知り、
藁をもすがる思いで、近くのカイロに通いはじめました。
定期的に施術を受けているうちに、劇的に良くなっていき
とにかく熟睡できるというのが一番うれしかったのをおぼえています。
気が付けば、首や肩のこりもかなり楽になってました。
その先生のもとには宝塚の女優さんも通うほどのベテランの
先生でしたがしっかり患者さんと向き合って治療しているのを
目の当たりに見ているうちにその仕事にすごく興味を持ちました。
「これだけよくしてくれたカイロプラクティックを自分もやってみたい」
そう思うまでに長くはかかりませんでした。
それである時、先生にその想いを素直に伝えました。
私の年齢的なものがあったかもしれませんがそんなに
甘い仕事じゃないといわれました。
それでもさらに想いを伝えました。
すると先生は
「そこまでいうんならカイロプラクティックは技術だけでなく、
身体の勉強もしないといけないので本気なら学校へ行きなさい」
といわれ東京の大川カイロプラクティック専門学院をすすめられました。
大川カイロプラクティック代表の大川DCはアメリカの
カイロプラクティック大学でDCを取得したアメリカではドクターです。
先生は大川DCと親交があり、どうせするんなら
ここで勉強しなさいと言われました。
迷いに迷った挙句
正直迷いました。
関西の学校ならともかく、勧められたのは東京の学校です。
でも先生に憧れて自分もやりたいと思ったわけですから。
しばらく悩んだ末、大川カイロに入学しようと決めました。
無事2010年10月に社会人を対象にしたクラスに入学しましたが
これからがたいへんです。
当時はまだ会社員。会社は神戸で学校は東京です。
心が折れないように、2年学校に行って3年修業して
2015年に独立開業すると自分なりに目標を立てました。
二束の草鞋を履きながら
その目標に向かって月曜から金曜までは会社務めで
金曜の夜の夜行バスに乗って週末は東京に行きました。
土曜はカプセルホテルに泊まって、日曜の夜行バス
に乗り 月曜の早朝に着いてそのままスーツに着替えて
会社に行きました。
金曜の朝、家を出たら今度、家に帰るのは翌週月曜の夜。
生活はごろっと変わりました。
さすがに疲れた時は、新幹線で帰ってきた時もありました。
学校では、実技と座学があり授業が終わってもバスまでの時間まで、
許すかぎり練習をしました。
平日は仕事が終わってから家で、カリキュラムに従って
解剖学や病理学などの講義をビデオで受け必死に勉強しました。
その週の授業の初めに先週の座学のテストが毎週あり
合格しないと追試があります。
覚えることがとても多くたいへんだったのを思い出します。
さらに定期的に中間、期末とテストがあり、学生時代でも
こんなに勉強しなかったなというくらいしました。
都内で屈指の人気を誇る治療院にてインターン経験を積む
二年になってからは学校直営院でインターンを
させていただき臨床経験を積ませていただきました。
東京都品川区で口コミ1位の治療院にて経験を積みました。
そんな生活が2年続き、2012年10月、晴れて学校を卒業しました。
卒業後もインターンは続けさせてもらい、卒業後2013年11月には、
神戸の会社を円満退社し、高い経験を積むべく単身上京しました。
喜んだり、落ち込んだりの修行時代
はじめて患者様を担当させてもらった時は、緊張しました。
カウンセリングもおどおどして、頭が真っ白になりました。
施術に入っても、もう汗だくです。
患者さんの方から「すごい汗ですね」なんて言われたり
今となっては、懐かしいですが、当時は悩みました。
そんな自分に、周りの院長やスタッフは快く練習相手に
なってくれたりしてとても感謝しております。
そんな中でも、「ありがとう、楽になりました。」と笑顔で
お礼を初めて言われた時にはとても、嬉しかったです。
喜んだり悩んだりいろいろありましたが
この道を選んで本当によかったと思います。
想いを胸に
患者様やいろんな人に支えられ三年の修業を終えて地元兵庫に戻り、
ここ東灘区岡本にて昔の私と同じようにつらい思いをされてる人に
少しでも力になれたらという想いから開院することとなりました。
最後に
27歳の時に阪神大震災がありました。
当時の私の実家は全壊しました。
幸い家族全員無事だったのですが少し痴呆症を患っていた祖母の
痴呆症が悪化し24時間介護が必要な施設に入ることになりました。
その後、両親は仮設住宅に入る予定でしたが、運良く
市営住宅に入れることになりました。
少し安心しましたがそれも長くは続きませんでした。
両親との別れ
私の両親は、病気一つしない元気な両親でしたが
震災2年後に父が突然倒れ救急車で運ばれました。
そのまま入院し退院することもなく半年後に他界しました。
その後、祖母も父の死を知らないまま亡くなりました。
父と祖母が他界し、しばらく母も旅行など楽しんだりしてましたが
その4年後にガンが見つかり闘病の末、母も他界しました。
いつも父に言えない事でも何でも母に相談し応援してくれた母です。
本当に悲しく私にとって大きなショックでした。
鳥井勇司にできること
大きな出来事が人に与える影響は計り知れないものなんだな
と 感じるのと同時に現在では別の思いがも湧き上がって
きています。
今の私であれば、両親を施術してあげて少しでも身体と心の
ケアをしてあげられたのに…。
その想いを忘れずに、一瞬一瞬を大事にしながら
来院される皆さまに いま最高の施術ができるよう
日々精進したいと考えています。